ザ・ローリング・ストーンズ/The Rolling Stones
1963年6月にチャック・ベリーのカバー曲 「カム・オン」でレコードデビューを果たしたイギリス出身のロックグループ。デビュー当時のオリジナルメンバーは、ミック・ジャガー (ボーカル)、キース・リチャーズ (ギター)、ブライアン・ジョーンズ (ギター)、ビル・ワイマン (ベース)、チャーリー・ワッツ (ドラムス) の5人。
その後、ギタリストの一人がブライアンから元ブルース・ブレイカーズのミック・テイラーへ、さらにミック・テイラーから元フェイセズのロン・ウッドへと変わったが、その他に大きなメンバー交代もなく (1993年にビル・ワイマンが脱退を表明)、ストーンズは、デビュー以来の40年近くの間、つねにロック・シーンの最前線でアグレッシブな活動を続けている。
グループ結成のきっかけは、プライマリー・スクール時代の幼馴染みだったミック・ジャガーとキース・リチャーズが、共通 の友人のディック・テイラーを通して再会した1960年に遡る。
当時、リトルボーイ・ブルー & ザ・ブルーボーイズというアマチュアバンドでプレイしていたミックは、バンドメイトであったディック・テイラーの紹介で、ディックが通 うシドカップ・アート・スクールの同級生、キース・リチャーズを紹介される。もともと幼馴染みの二人は、黒人音楽に対する共通 の興味もあって意気投合し、ロック・グループの結成を意識し始める。(二人が再会するきっかけを提供したディック・テイラーは、後にプリティシングズへ参加している)
同じ頃、ウエスト・ロンドンの地下室に設けられた小クラブ、イーリング・ブルース・クラブを訪れたミックとキースを驚かせたのが「エルモ・ジョーンズ」(資料によっては「エルモ・ルイス」と紹介されている) の名でエルモア・ジェイムスばりのスライドギターを披露していたブライアン・ジョーンズであった。
ピアノ教師をしていた母親の影響もあって幼少の頃より音楽教育を受けていたブライアンは、ミックとキースより一足早く、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドでプレイしていた。このグループには、後にストーンズのドラマーとなるチャーリー・ワッツやピアニストのイアン・スチュアートらが参加しているが、ミックとキースもこのグループに名を連ねることとなり、ストーンズの母体が形作られていく。
ミック、キース、ブライアンを中心とするメンバーが自らをローリング・ストーンズと名乗ってロンドンのマーキークラブで最初のライブ活動を行ったのは1962年7月のことであった。バンド名は、彼らが敬愛するブルース・ミュージャン、マディ・ウォーターズの名曲「ローリング・ストーン」(1950年)
にちなんで選ばれた。この時のメンバーは、ミック、キース、ブライアンの三人に、イアン・スチュアート、ディック・テイラー
(ベース)、ミック・エイボリー (ドラムス) が加わっていたが、ほどなくしてディックはザ・クリフトンズでプレイしていたビル・ワイマンと交代し、また、ミック・エイボリー
(後にザ・キンクスへ参加) の脱退に伴い、ブルース・インコーポレイテッドを離れて広告代理店に勤務していたチャーリー・ワッツが新たなドラマーとして採用されている。
ラインナップは固まったものの、依然としてアマチュアの域を出ないストーンズに大きなチャンスをもたらしたものはジョルジュ・ゴメルスキーと彼がオーナーを務めるクロウダディ・クラブであった。このビッグクラブへの出演で、ストーンズは幅広いファン層を掴むとともにその噂を聞き付けてやってきたアンドリュー・ルーグ・オールダムの注意を引き付けることとなる。
ブライアン・エプスタインのもとでビートルズの広報マンを務めながら、自らがマネジメントすべき新人グループを物色中だったアンドリューは、ただちにストーンズをゴメルスキーのもとから引き抜くとデッカ・レコードからデビュー・シングル 「カム・オン」をリリースすることに成功する。ストーンズにとって、念願のレコードデビューである。一方、金の卵をアンドリューにさらわれたとも言えるゴメルスキーは、ストーンズに対抗して、後に三大ギタリスト (エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ) の出身グループとして知られることとなるヤードバーズのマネージャーに就任している。
音楽の専門知識をほとんど持ち合わせていないもののプロモーションの才能には長けていたと言われるアンドリューは、クリーンなファッションでスマートな印象を前面 に押し出していたビートルズに対抗して、バッドボーイズのイメージでストーンズを売り出すことを決定する。
また、髪が短く反抗的なイメージを欠くとの理由でイアン・スチュアートをメンバーからはずしたのも、アンドリューのアイディアである。なお、イアン・スチュアートは、その後もグループを去ることなく、1985年に他界するまでセッション・ピアニストとしてストーンズの音楽に貢献し続けることとなる。
少し話がそれるが、ビートルズとストーンズのイメージの対比について、新宿で偶然出会ったコミュニストを名乗るイギリス人から興味深い話を聞いたことがある。元デンマーク代表のサッカープレイヤー、ミカエル・ラウドルップを思わせる風貌の彼は言った。「ビートルズはワーキング・クラスの出身でありながら、ミドル・クラスであるかのように振る舞った。一方のストーンズはミドル・クラスの出身でありながら、ワーキング・クラスであるかのように振る舞った。だからこそ面 白いのだ。」
日本人である自分には何が面白いのかよくわからない。しかし、メンバーの中では比較的裕福な家庭で育ったと言われるポールを除けば、ドロップアウト組を掻き集めた感のあるビートルズと、エリートコースと言われるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通 っていたミックを中心とするストーンズの間には、その背景に大きな溝があるのかもしれない。ただし、最も重要なことは、それぞれのマネージャーが考えたバンドのイメージが決してお仕着せのアイドルルックではなく、実際に彼らの音楽性を象徴していたことではないだろうか。
デビュー後のストーンズは、「イッツ・オール・オバー・ナウ」(1964年) や「ラスト・タイム」(1965年) といったヒット・シングルを量 産しながら、1965年に発表したオリジナル・ナンバー 「サティスファクション」の成功で英国ロック・シーンにおける地位 を不動のものとする。その後も、70年代のレイドバックやディスコサウンドなど時代の流行を取り入れながらも、基本的には一貫して黒人のブルース音楽をベースとしたスタイルの作品を発表し続けている。
なお、ストーンズの代表的なアルバムには、60年代の「ベガーズ・バンケット」(1968年)、70年代の「メイン・ストリートのならず者」(1972年)、80年代の「刺青の男」(1981年) 、90年代の「ヴードゥ・ラウンジ」(1994年) などがある。
・関連ページ ローリング・ストーンズのトップページへ
・関連ページ ミック・ジャガーの紹介ページへ
ローリング・ストーンズのCD、DVD、ビデオ、関連書籍を探してみよう
|
|
Copyright (C) 2000-2002 SWING ART. All rights reserved.