モータウン/Motown
黒人資本によって設立されたミシガン州デトロイト発祥のレコード会社。正式名称は、モータウン・レコード・カンパニー・リミテッド・パートナーシップ。
モータウンの歴史は、創立者であるベリー・ゴーディ・ジュニアが家族に用立ててもらった800ドルで会社を設立した1959年に幕を開ける。設立当初の会社のオフィスは、ワーキングクラスに属する黒人たちの居住エリア (デトロイト市内) にあったベリー・ゴーディの自宅に設けられたと言う。なお、社名のモータウンは、自動車産業で知られるデトロイトがモータータウン (「モーターの町」の意味) と呼ばれていたことに由来する。
モータウンの初めてのヒットシングルは、1959年にベリー・ゴーディ本人とジャニー・ブラッドフォードが共作し、バレット・ストロングが歌った "Money (That's What I Want)" によって記録された (この曲は、当初、モータウンのタムラ・レーベルから発表されるが、翌年の1960年にアンナ・レコードから再リリースされて全米第23位 のヒットとなる。ビートルズやローリング・ストーンズによってカバーされているほか、ドアーズのステージ・レパートリーにも加えられるなど、英米のロックバンドの間で人気の高いナンバーである)。
その後も、ベリー・ゴーディはデトロイトを中心に新しいタレントの発掘に力を注ぎ、1960年以降のモータウンからは、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、ザ・テンプテーションズ、ザ・シュープリームスといった人気ソウルグループが続々と誕生する。
また、1963年には、エディ・ホランド、ラモン・ドジャー、ブライアン・ホランドから成る作曲家兼プロデューサーチームのホランド=ドジャー=ホランドと契約し、このチームが、1964年から65年にかけて"Where Did Our Love Go" や "Stop! In The Name Of Love" を含むザ・シュープリームスの5曲連続のナンバーワンヒットという偉業を成し遂げる原動力となっている。
モータウンの最初の全盛期は、ホランド=ドジャー=ホランドが活躍した60年代の中頃から後半にかけてということになるだろうが、70年代に入ってからも、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ファイブ、ダイアナ・ロス(1970年1月のラスベガスでのコンサートを最後にザ・シュープリームスを脱退し、ソロ・キャリアをスタート)等が立て続けにヒットを飛ばし、ソウル、リズム&ブルース部門におけるヒットメーカーとしてのモータウンの地位 は依然として揺るぎないものとなっていた。
サム・クックやリトル・リチャードらに代表される1950年代のソウル・ミュージックと比較し、モータウン・サウンドの特徴は、ストリングスを多用したマイルドかつムーディなアレンジ、わかりやすく洗練されたメロディ、耳障りがよく艶やかなハイトーン・ボイスと言った言葉で表現することができる。これらはいずれも、リズム&ブルースを白人のマーケットに広げたいというベリー・ゴーディの戦略と無関係ではなかったと思われる。
モータウンの音楽が黒人のみならず白人のリスナーにまで広く受け入れられたことは事実であるし、その結果 として、モータウン・サウンドがビートルズやローリング・ストーンズ、あるいは、ビーチボーイズといった英米のロックグループに大きな影響を与えたことは無視できない。
しかしながら、その一方で、メンフィス・ソウルの中核を担ったオーティス・レディング、同じくメンフィスのスタックス・スタジオから優れたソウル・アルバムを送り出したウィルソン・ピケット、あるいは、カーティス・メイフィールドに率いられてシカゴを中心に活躍したインプレッションズのように、60年代以降に、よりディープなリズムに乗せてピュアなブルースやゴスペルからの影響を隠そうとしない一連の新たなソウル・ミュージックが生まれていったことも、白人のサウンドに接近しすぎたモータウンへの反動がその一因と考えるならば、モータウン・サウンドとの関連を全く無視して捉えることは難しいように思う。
なお、創業者のベリー・ゴーディは、1988年に、MCAが中心となって運営するコンソーシアムへ会社を売却しているが、 その後の1993年には、さらにポリグラムグループがモータウンを買収している。
・関連ページ スティーヴィー・ワンダーのリンク集へ(モータウンのオフィシャル・サイトを含む)
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