ビートルズ特集


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デル・シャノン/Del Shannon

 

 1934年生まれ。米国ミシガン州出身のロック・シンガー兼ソング・ライター。ポップス史上に残るスタンダード・ナンバー「悲しき街角」(原題は "Runaway") のオリジネイターとしても知られる。

 オルガニストのマックス・クルックとともにロック・バンドを結成し、地元ミシガンのハイ・ロー・クラブで音楽活動を続けていたデル・シャノンは、1961年に発表したデビュー・シングルの「悲しき街角」が米国と英国の双方でトップチャートを獲得する大ヒットとなり、華々しいレコード・デビューを飾る。

 マックス・クルックが弾いたAマイナーとGコードの組み合わせに、これまで受けたことのない刺激を聴き取ったデルは、このフレーズをテープに録音して自宅へ持ち帰り、翌日には歌詞を加えて曲を完成させた。デモテープを聴いたデルのマネージャーは即座にレコーディングを決定し、デルの生涯における最大のヒット・ナンバーである「悲しき街角」が、こうして誕生することとなった。(印象に残るキーボードのソロ・パートは、もちろんマックス・クルックがプレイしている)

 その後、デル・シャノンは、"So Long Baby" (1961年)、"Hey Little Girl" (1961年)、"Swiss Maid" (1962年) といったヒット曲を連続して生み出すのだが、マイナーコードを巧みに駆使する独特の作曲センスのためか、デルのナンバーは米国よりも英国のリスナーに広く受け入れられ、上記の曲はいずれも英国のチャートにおいてトップ10入りを果 たしている (米国では上記のナンバーの中で "So Long Baby" の第28位 が最高である)。

 英国においてより高まる人気を背景に、デルは、1963年のツアー中にロンドンのアルバート・ホールでビートルズと競演している。デルは、このとき顔を合わせたジョン・レノンにビートルズ・ナンバ−の "From Me To You" をカバーしたいとのプランを語ったと言われ、実際に同年中にこの曲のカバー・バージョンを発表したデル・シャノンは、このナンバーを全米チャートの第77位 へランクインさせている。

 (当時、米国では無名に近かったビートルズにとって、このカバー・バージョンは、アメリカでチャートインした初めてのレノン&マッカートニー・ソングとなった)

 1965年の "Stranger In Town" を最後にヒット曲に恵まれなかったデルだが、1982年リリースのアルバム「ドロップ・ダウン・アンド・ゲット・ミー」からのシングル "Sea of Love" によって久方ぶりに全米チャートのトップ40に返り咲いた。また、このアルバムは、ハートブレーカーズトム・ペティがプロデュースしたことでも話題となった。

 その後、トム・ペティに加え、元ELOのジェフ・リンも参加したアルバム「ロック・オン」を制作したデル・シャノンは、彼らとのつながりを根拠に、1988年12月に急逝したロイ・オービソンの代役としてトラベリング・ウィルベリーズ入りを噂されるようになるが、その期待が高まるなかで、1990年2月に自らの命を断っている。

 1998年11月に、デル・シャノンのロックの殿堂入り (the Rock And Roll Hall of Fame) が発表された。翌年の3月に開催された受賞式のセレモニーでは、ボニー・レイットがブルージーにアレンジされた「悲しき街角」を歌い、ビリー・ジョエルがキーボード・ソロを奏でた。また、デルの息子であるクレイグと娘のジョディ、キムの3人がステージに上がり、関係者への謝辞を述べるとともに「父は、彼の音楽の中に生き続ける」とのコメントを発表した。その言葉どおり、デル・シャノンの歌と音楽は、時代を超えて聴き継がれ、そして、歌い継がれていくのであろう。

 ・関連ページ レオン・ラッセルのリンク集(デル・シャノンのオフィシャル・サイトを含む)

 ・関連ページ ボブ・ディランの関連アーティスト・リンク集(トラベリング・ウィルベリーズの特集サイトを含む)

 

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