ビートルズ特集


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ジョンの父親、フレッド・レノン/Fred Lennon

 

 第二次世界大戦が幕を開けようとする直前、ヨーロッパ全土が不穏な空気に包まれ始めた1938年12月に、フレッド・レノンは、ジョンの母親となる女性、ジュリア・スタンレーと結婚している。

 船乗りであったフレッドは、結婚当初より家を空けることが多かったが、彼女がジョンを身籠ったことを知ると、完全に家を出て行ってしまった。そして、その数カ月後、1940年10月9日に、ジョン・ウィンストン・レノンが誕生している。

 フレッドとジュリアは、ジョンが生後18ヶ月の時に正式に離婚することとなる。経済的な困窮がその理由と言われているが、当時、ジュリアが別 の男性と新たな生活をスタートさせる決意を固めていたことも事実であったと伝えられている。

 ジョンは、ジュリアの姉妹であるミミに預けられた。リバプールの郊外、メンローブ・アベニューに住むミミは、物心もつかないジョンを親代わりとなって育てることには同意したが、フレッドとジュリアが強く望んだにもかかわらず、ジョンを養子として引き取ることだけは頑に拒絶した。

 (メンローブ・アベニューの名称は、ジョン・レノンの未発表テイクを収録した1986年リリースのアルバムのタイトルとして使用されている)

 生後2歳にもならないジョンが、両親から親子の絆さえ断ち切られようとしていた事実は、後にこのことを知ったジョンの心に影を宿さないはずはなかったと思われる。"Julia""Mother""My Mummy's Dead" という3曲の作品の中で母親をテーマとして取り上げているジョンだが、言葉によって伝えられる内容以上の重みがこれらの楽曲から感じられる理由については、ジョンの生い立ちを知ることでさらにその理解が深まるはずである。

 ジョンが5歳になった時、唐突に舞い戻ってきたフレッドは、ジョンを連れ出そうとする。友人とニュージーランドで人生をやり直そうと決意していたフレッドは、ジョンを伴って新たな生活をスタートさせようと考えたのであった。フレッドは、これを引き止めにやってきたジュリアと口論になった末、父と母のいずれとともに生きていきたいかの選択を最終的にジョンに委ねた。

 当初は父親を選択したと言われるジョンも、ジュリアがいなくなると母親との別 離の辛さに耐えかね、ジュリアの後姿を追って父親の住居を出たのであった。わずか5歳にして、両親のいずれを選択するかの決断を迫られる運命は、苛酷と言うほかないように思われる。

 この日を最後に、フレッド・レノンはジョンの前から姿を消すこととなる。二人が再会するのは、ジョンがビートルズのリーダーとして、その名声を確立してからのことである。

 アルバム「ア・ハード・デイズ・ナイト」を制作中のジョン・レノンのもとに、父親の知らせが届く。ホテルで皿洗いをして生計を立てているフレッドが、ジョンに会いたがっていると言うのである。マスコミを通 してジョン・レノンの父親であることをアピールし始めたフレッドに対し、ジョンは仕送りを約束することで「和解」する。

 しかしながら、仕送りの開始から数年後に、フレッドは癌によって帰らぬ 人となった。ビートルズとしてのデビュー前に、交通事故によって母親のジュリアを失くしていたジョンは、父親をも失うこととなる。「ママ、行かないで。パパ、帰ってきて」と終わりなくシャウトし続ける "Mother" が発表されるのは、1970年のことである。

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