僕の歌は君の歌 | |
エルトン・ジョン |
なごみ
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ダンス
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ソウル
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原題 | Your Song |
リリース | 1970年 |
作詞・作曲 | バーニー・トーピン、エルトン・ジョン |
プロデュース | ガス・ダッジョン |
演奏時間 | 4分2秒 |
収録アルバム | 「僕の歌は君の歌」(ディス・レコード/1970年) |
ミュージシャン | エルトン・ジョン(ボーカル、ピアノ、キーボード)、フランク・クラーク(ギター)、コリン・グリーン(ギター)、クライヴ・ヒックス(12弦ギター)、デイヴ・リッチモンド(ベース)、バリー・モーガン(ドラムス) |
[レビュー]
ロック史上に無数のヒット曲を生み出した希代のポップ・スター、エルトン・ジョン(本名:レジナルド・ケネス・ドワイト)は、1947年、イギリスのミドルセックス州ピンナーに生まれた。4歳のときにピアノを始め、幼少の頃より音楽の才能を発揮していたエルトンは、1961年にロック・バンドのブルーソロジーに参加してミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。
その後、ブルーソロジーの一員として様々なアーティストのバック・ミュージシャンを務めていたエルトン・ジョンは、1966年にソロ・キャリアの確立を目指してリバティ・レコードのオーディションに参加。テストには不合格となるものの、同じオーディションに応募していた作詞家、バーニー・トーピンを紹介され、エルトンは彼の作品の作曲を引き受けることとなる。
(エルトン・ジョンは、デビュー前にキング・クリムゾンとジェントル・ジャイアントのボーカル・オーディションにも応募している。後にきらめくようなポップ・センスを発揮してヒット曲を連発するエルトン・ジョンが、この時期にプログレ系のロック・バンドに入りたがっていたという事実は興味深く感じられる)
バーニー・トーピンとのコンビで多くのシンガーに楽曲を提供し始めたエルトン・ジョンは、1969年にソロ・アルバムの「エンプティ・スカイ」("Empty Sky")を発表してアルバム・デビューを果たす。コマーシャルな面では不発に終わったデビュー・アルバムだが、エルトンとバーニーのコンビは翌年の1970年にセカンド・アルバムの「僕の歌は君の歌」をリリースし、ここからシングル・カットされた「僕の歌は君の歌」が全米チャートの第8位 に入るヒットとなってエルトンは遂にブレークのきっかけを掴むのである。
(エルトン・ジョンのペン・ネームは、バーニー・トーピンとのコンビ結成のときに初めて使われることとなった。姓と名前が逆転した奇妙だが憶えやすいペン・ネームは、ブルーソロジー時代の二人のバンド・メイトの名前を組み合わせて発案されたものと言われる)
本ナンバー「僕の歌は君の歌」は、エルトン・ジョンの記念すべき最初のヒット・ナンバーであるとともに、優しさと美しさに溢れたメロディ・ライン、エルトン自らが奏でるピアノ伴奏を中心に瀟洒にまとめあげられたポール・バックマスターのアレンジなど、その後のエルトン・ジョンのヒット曲に共通 する魅力を先取りした彼の代表曲と言えるだろう。
曲は、エルトンがつま弾く華麗なピアノのイントロでスタートして、ソフトな歌声で美しい旋律を歌うエルトンの独唱パートへと導かれる。フレーズを重ねるごとにストリングス、アコースティック・ギター、リズム・セクションのパートが追加され、自然な流れのなかで音色を豊かに積み上げるアレンジがドラマティックに展開するこの曲の主旋律を見事に盛り立てていく。
元来、ピアニストとしての教育を受けながらロック・ミュージシャンの道を選んだエルトン・ジョンのピアノ伴奏は、決してシンプルとは言えないフレーズを奏でながらも同じパターンのプレイ・スタイルを繰り返すことで伴奏の役割にとどまり、ボーカル・ラインが形作る主旋律の美しさをより鮮やかに引き出すという音楽上の効果 を生み出している。また、曲の後半ではピアノ伴奏のフレーズがそのまま12弦ギターのプレイへ引き継がれて曲のイメージに変化がもたらされるが、さりげない展開の中にも最後まで聴き手を飽きさせないアレンジ面 での工夫を凝らしている様子がうかがえる。
本ナンバー「僕の歌は君の歌」は、作曲者、シンガー、そしてピアニストとしてのエルトン・ジョンの魅力と、これをバック・アップするアレンジャーやサポート・ミュージシャン達の努力が一体となって創り上げられたエルトン・チームの代名詞的な名曲と言ってよいように感じられるのである。
[モア・インフォメーション]
アルバム「僕の歌は君の歌」の制作においては、このアルバムから加わったプロデューサーのガス・ダッジョンとアレンジャーのポール・バックマスターが大きな役割を果 たし、彼らに作詞家のバーニー・トーピンを加えた顔ぶれがその後のエルトン・ジョンのヒット路線を支える主力メンバーとなっていく。その意味で、アルバム「僕の歌は君の歌」はエルトンにとって初めてのメジャー・ヒット作であるとともに、長期にわたって活躍を続けるエルトン・チームの原形を提供したメモリアルな作品でもあると言えるだろう。
その後のエルトン・ジョンは、70年代の初めから半ばにかけて文字どおりの快進撃を開始する。彼がリリースした「ホンキー・シャトウ」("Honky Chateau"/1972年)、「ピアニストを撃つな!」("Don't Shoot Me I'm Only A Piano Player"/1973年)、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」("Goodbye Yellow Brick Road"/1973年)、「カリブ」("Caribu"/1974年)の4枚のアルバムは相次いで全米アルバム・チャートの第1位 に輝き、これらのアルバムからは「ロケット・マン」、「ダニエル」、「クロコダイル・ロック」、「ベニーとジェッツ」などの無数のヒット・ナンバーが生み出される。
さらに、1975年にリリースされたアルバム「キャプテン・ファンタスティック・アンド・ザ・ブラウン・ダート・カウボーイ」("Captain Fantastic And The Brown Dirt Cowboy")は、アルバム・チャート初登場で第1位 というエルビス・プレスリーやビートルズでさえ成し遂げられなかった史上初の快挙を達成している。
80年代以降のエルトン・ジョンは、さすがにかつての勢いに陰りが見え始めたものの、「サッド・ソングス」(1984年)や「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」(1987年)などのトップ10シングルをリリースしてその変わらぬ 人気を維持していく。また、映画「ライオン・キング」(1994年)の挿入歌やダイアナ妃を追悼した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」のリメイク版(1997年)でポップス・シーンの話題をさらうなど、エルトン・ジョンは、70年代に全盛期を迎えたロック・アーティストとしては異例と思えるほどの長い人気をその後も保ち続けているのである。
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